悪人 レビュー。 悪人 感想・レビュー|映画の時間

映画「悪人」ネタバレ感想 本当の悪人は誰だ!?

悪人 レビュー

三瀬峠女性殺害事件、それに過疎の町で出会いを求める若者が重なり合って、時間を行き来し主人公たちが立体的に描かれています。 個人的には桐野夏生や宮部みゆきの初期の作品群に匹敵するほどの面白さを持っていると思います。 とにかく、読みやすい。 連載ものであることを考慮しても、方言もあるし登場人物も増えてくる中でこれだけ読者を引き込むのはさすがと思う。 作品は、登場人物の心情と情景を説明する「作者」と、登場人物たちの証言によって成り立っています。 この証言が物語を読み解き、事件の横顔を形作る重要な要素になります。 この作品はレミゼラブルの序文を思い起こさせます。 「法律と風習とによって、人為的に地獄を文明の最中にこしらえ..... 貧困よる男の失墜、飢餓による女の堕落.....」法律などによって救われない悲惨な状況がここにもあると。 他方で「人間の本質は善と悪」がテーマだとすれば、ワーキングプアの祐一、男漁りの佳乃、地方大学で王子様気取りの増尾、出会いのない光代。 誰しも多少の善悪は含んでいる。 これらの登場人物が法律や社会的な側面から端的に分けられる善悪の基準と、読者が感じるであろう登場人物に対する善悪の基準は少し違いがあると思う。 「あんなことをするような人じゃ」「本当はやさしい人なんです。 」どれも嘘ではないのに。 このギャップが実は非常に不快で、かつ読みどころなんだと思います。 最後に光代の証言で出てくる疑問文の数々「...おらんですよね?」「ですもんね?」。 僕には彼女の涙の符号に見えて仕方ない。 そう思うと、物語の中で望んだ、善の形に光があたるということになる。 小説を読み終えてからすぐ、レビューが気になっていろいろ読んでみました。 好き嫌いがはっきりする小説のようで、悪評を書いた方の意見も十分共感する部分もありました。 確かに、この小説の主人公はみな、どこかキャラが固定的すぎて、主人公の祐一を除くと、予め答えを決めてある性格になってしまったような気がします。 ただ、そんなところを考慮しても、この小説には人を引き寄せる力があるんだなぁ、と感心して読み終えました。 日本語ネイティブではないので、九州の方言は少しきつかったですが、話の理解に邪魔になるくらいではありません。 逆にあとで翻訳版を覗いたら、あまり方言をしゃべる話者の雰囲気を生かすことができず、この話の舞台となった「実際する九州の地名」及び地方独特の雰囲気がかなり薄れてしまったので残念でした。 こういって地方色が強く表れている小説は、言語の壁を乗り越えることがかなり難しいとも感じました。 小説の内容からいうと、まず序盤は「佳乃」の周りをかなり細かく書いていきます。 彼女は事件の被害者でありますが、作家は多分彼女を「あるキャラ」にしたかったらしく、「死なれたことも理由がなんとなくわかる」と、読者を納得させてしまいます。 だからといって死んでいい人は一人もいないことをわかりつつ、読者は「ワイドショーで人の人生を軽くふみじるようなコメンテーター」と変わりなく、彼女の死をなぜか納得してしまうのです。 そして主人公であり、殺人者である祐一。 この小説は推理小説ではないので、最初から事件の全模や犯人を読者に知らせてから、その事件にまつわる人々の話を「証言」の形で多角度から見ていきます。 祐一自身の声はあまり出ませんが、周りの人物の話から彼の人生を読んでいくと、「殺人犯」という断定的な単語では表現できない、なぜか彼のことが少しずつ分かってきます。 ましては、読者は「光代」に感情が入り、愛し合う二人を応援したくなってしまいます。 彼は本当に悪人だったんだろうか、と最後に光代が聞いてくるところで、読者は混乱するかもしれません。 ただ、その前に、私たちに単に人を悪人、善人と決めつける権利はあるのか?と、最初の前提から疑問になってきます。 この小説に登場するほとんどの人物は、両方を持っている人かもしれません。 感情描写にかなり力が入っていて、セリフも多く、読みやすい小説ではあります。 映画のほうも気になりました。 向き不向きはある小説ですが、人間の感情を扱い、代理体験をすることが小説の目的であるなら、その点でこの本はかなり目的を達成しているとも思います。

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悪人 レビュー

そしてその思いは深津絵里さんに届いていない可哀そうな設定ですよね。 妻夫木君の狙いどおりですが。 ただこの映画のぴあ映画生活のカテゴリは「サスペンス」となっていて、サスペンスにはどんでん返しの要素もあると思います。 この映画ってサスペンスとはちょっと違うとは思うんですが、サスペンスとみればストーリー中のエピソードのインパクトの大きさから妻夫木君の鬼の顔をどんでん返しと見て、お連れ様の解釈もありなんでしょうか。 妻夫木君が警官に取り押さえられながら最後まで深津絵里さんの指先に触れようと何度も何度も必死にもがくところ、あれを伏線にして妻夫木君は鬼じゃなかったことがさらなるどんでん返しとの解釈もできると思いますけれども。 それで最後のシーンで自分自身にも言い聞かせるように「(本当は違うことがわかっているけど)あの人は悪人だったんですよね。 」っていう言葉につながったのではないかと。 もしもあのまま二人が捕まったら、光代は犯人隠匿罪とか、逃亡罪(?)とか、要するに殺人犯人と知りつつ一緒に逃亡したことを警察から追求されてしまいますよね。 実際自首するつもりの祐一を逃亡させたのは光代だったのだから、本来なら自首という情状酌量の余地が生まれる所を、その機会を無くさせてしまった光代の行動も、感心できないものではありましたが。 けれども、祐一が出会い系サイトで知り合って連れまわし、邪魔になったので殺そうとしたという(ような)ストーリーを描いて、光代に追求が行かないように、とっさの判断で光代の首を絞めたのは、もちろん祐一の光代に対する愛情から出た行動に他なりません。 その思いは光代にも届いていることは、佳乃の殺害現場に花束を届けに行った行動からも分かると思います。 本来は光代と無関係の佳乃なのですから、あそこで(彼に代わって)花束を届けに行く必要などないのです。 この場面で献花しなかったのは正解ですよね。 うまい演出だと思いました。 タクシーの運転手との会話で混乱する人もいるかもしれませんが、あれは単に運転手に合わせて言っているだけなんですね。 まあ、実際彼は殺人者なんだし。 その後のラストシーン。。 涙が出て来ます。 私はこの映画の本当のテーマは、柄本明が岡田将生に怒りをぶつけるシーンと、樹木希林が松尾スズキに迫るシーンにあると考えているのですが、映画的なクライマックスは間違いなく妻夫木聡が深津絵里の首を絞めるシーンでしょう。 彼女を犯罪者にしないための渾身の演技で彼は凶悪犯罪者として逮捕される訳ですが、その心は彼女にも十分伝わっていると思います。 彼の人生を捨てた愛情に報いるためには、自分の中から彼の存在を消してしまわなければいけない。 できない事だとは解っていても無責任な野次馬の意見に歩調を合わせる事で自分も他人になろうと決意したんだと思います。 しかし献花をしなかったのは、彼女にとってやはり被害者は妻夫木聡であって、満島ひかりに同情できないという彼への愛情の証でもあったんでしょう。 どちらも彼の捨て身の愛情に報いる彼女の愛情の表現だと思います。 ペンギンでした。 ですからタクシーに戻っても帰ろうとはしませんでした。 光代は佳乃とは何の関係もないので、もしもどういう関係なのかとか聞かれると答えにくいですからね。 まさか、祐一の代わりに花束を持ってきたとは言えませんよね。 圭吾に車から蹴り出されてひどい状態になっている所を、ガテン系とバカにしている祐一に見られ、同情されるのは佳乃にとっては屈辱以外の何物でもないので、祐一はザマァ見ろとでも言ってさっさと置いてきぼりにしてやればよかったんですよね、あんな女。 けれどもそんなことが出来ない不器用な祐一だから、ついカッとなって殺してしまったのですが、そういう祐一をそのまま愛してしまったのが光代なんです。 タクシーの運転手が言う通り、(一寸言葉は正確に覚えていませんが)人を殺したヒドイ男なんですよね、祐一は。 けれども、光代はそういう祐一をそのままに愛することを決めたのでした。 ですから、先にどうなるかは誰にも分かりませんが、今は光代は祐一を待つのだろうと、私も思います。 現実から隔離されていわば二人の世界に居たのですが、捕まれば引き離され、裁かれ、冷静になり、周りからは「あんな殺人犯の事は忘れなさい」「二度と会っちゃダメ」と当然、圧力がかけられるわけで・・・検察は、いかに彼女が利用されたかとか、いかに酷い男であったかとか語られるだろうし。 今の、自分のものであるうちに彼女を永遠に手に入れるのもあり???まぁ、その解釈なら「俺はあんたが思っているような人間じゃねえ」は、必要ないですね。 ラストのシーンを含めると、やっぱり、Minaさん解釈で!• 映画では描かれていなかったのですが、原作では祐一と付き合いのあった美保という風俗嬢が登場します。 彼女とのシーンの中で彼が、「母親に欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」「どっちも被害者になれんたい」と言っており、彼のパーソナリティを表す大きなエピソードになっています。 また、逮捕後の取調べでも「彼女には事件の事は忘れてもらって、早く幸せになって欲しいです」と語るシーンもあります。 まあ、映画と原作は同じテキストをベースにした別作品と捉えるべきだと思いますので、一概には言えませんが最後に手をかけたのは祐一の光代に対する精一杯の愛情だったのだと解釈しています。 そうでなければ現場に献花にいく行動は説明できません。 私はそこにこの映画の救いを見ました。 それがなければあまりにもつらすぎる映画になりますよ。 (私のコメントでも書きました) 原作を読まずに映画を見ました。 その後原作の最後だけ立ち読みしたら、ヨークさんが書かれたとおりで、納得でした。 原作と映画はかなりテイストが違ったものになっていますので、タイトル「悪人」のとらえ方も異なってくるのでしょう。 映画では少しだけ触れられていましたが、原作には祐一と母親の確執が描かれています。 「母親から千円、二千円とお金をせびっていく」のは、母親に、子どもを捨てた罪悪感をもたせないためだったと私は理解しました。 それと同じように、ラストで光代の首を絞めるまねをしたのも、彼女のためを思ってでしょう。 祖母にあげたスカーフの件はちょっとあざといですが、祐一は、本音はそういう心やさしい、他人を思いやることができる青年だったというエピソードなのでしょう。 しかし、原作での風俗嬢とのくだりは、なかなか不可解です。 祐一という人間の一枚岩ではない、複雑で極端な性格が垣間見えます。 現実的な見方をすれば、単に人づきあいが下手というよりは、脳に器質障碍があって他人との距離がうまくとれなかったのではないかと思います(あくまでも原作内では)。 個人的には、光代の最後のセリフは蛇足だったように思いますが。 (原作を読んだのがかなり前なので、解釈に間違っているところがあったら申し訳ありません)• そこでは、善悪の判断がつかぬほど暗く重く、自分は何者かもわからなくなっている。 もうすでに「悪意」とか「殺意」とかの言葉では表現できないように感じます。 祐一の瞳に光がほとんど宿っていなくて(もちろん照明の効果もありですが)涙ばかりが輝く、不思議な表情でした。 鬼の形相なのに、あまりにも悲しすぎる。 心の深い闇の中で、自分が何者すらもわからない。 それが「俺はあんたが思っているような人間じゃねえ」という言葉に出てきたと思います。 …んー、でも結局、あのとき光代を殺してしまったら、自分も死ぬつもりだったんでしょうね。 光代を殺せなかったのは、二人の純粋な愛に対する、神のせめてもの情けでしょうか。 祐一から引き剥がされた直後の、光代の夢うつつな表情の、官能的で美しかったこと。 被害現場に献花しなかった理由についてもいろいろ取りざたされていますが、献花しないほうがよかった、という論には大きくうなずいてしまいました。 なるほどねえ…。 ネットでいわれているように、母親や風俗上とのシーンがないのは、作り手もなかなか勇気の要る決断だったのかも。 それがなくても、祐一が心優しい若者であることを想像するのは難しくはないですけどね。 犯罪者となるのは妻夫木だけで深津絵里さんのためにあえてやった、むしろ優しさなのだと。 まちがいなく深津絵里さんを思ってのことですよ。 小生はそう確信します。 ただ、光代の最後の言葉、「彼はやっぱり世間で言われているような悪人なんですよね・・・」に関しては、それでも、たとえどんな理由があろうとも、殺人を犯しては絶対にいけないんだ、という作り手のメッセージなんだと思います。 話的には切なく苦しく、どうしようもなかった二人の想いが胸にずしんとくる作品ですが、やはり彼のたった一つの過ちは正当化されてはいけないのだと思います。 殺意がなかったかもしれないが怒りに負けて人を殺めてしまった裕一と、殺意にも似た怒りをもっていながら大学生に手を下さなかった佳乃のお父さん。 この二人の対比が印象的です。 灯台で光代に手をかける祐一の行動の真意とは。 私も光代を逃亡の共犯者にしない為、また、これからの光代の将来を思って本気で悪人になろうとした為ではないかと思っています。 ただ、首をしめながら祐一が光代にキスする場面では、光代の将来の為と信じ首をしめる行動と矛盾していますよね?気持ちを抑えられなかったと解釈していいのでしょうか。。 光代は苦しかったと思うのでキスされたことを覚えているかどうかは分かりませんが、覚えていた場合、その行動はその後の光代にどんな決意をさせたのか謎ですが、光代は祐一の真意に気付いていると私は思いたいです。 また、献花しなかった理由については、光代が佳男と出くわしてしまったことで、光代が「この人(佳乃の父)の娘を殺した祐一を本気で愛し、一緒に逃亡してしまった自分に献花する資格はない」とでも思ったのかな、と解釈していましたが、皆さんの様々なご意見により「こういう考えもあったんだ」と別の視点から想像することができました。 この映画(原作)は、言っては悪いですがそんなありきたりのことを伝えたいというのが動機なんでしょうか。 「悪人」という題名から、私はすぐに親鸞上人の「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。 」という言葉を思い出しました。 「害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と続きます。 恐ろしい言葉です。 善人、悪人という世俗的な区別がほとんど意味を無くしてしまうような、この映画はそんな所にまで行ってしまったようにも感じられる、と言ったら買いかぶり過ぎでしょうか。 スレ主様の立ててくださったこのトピックとは少し趣旨がずれると感じたので、あまり深くは書きませんでしたが、最後の言葉の意味あいについては、あまりにも美しく昇華されてしまったこの物語の中において、ともすれば祐一一人が悲劇の主人公になってしまいそうな感覚に対して一つの警鐘を鳴らす必要がどこかにあったのではないか、と思えたのが理由の一つでした。 あくまで私個人の考えに過ぎないのですが、光代が献花に行った時、佳男と遭遇してしまい光代はタクシーに戻ってしまう。 光代という人物は、この作品の中において唯一祐一の真実の全てを知っているといってもいい存在です。 その光代が献花している佳男を見て言った言葉があの台詞でした。 人を善人悪人で分けられるとするならば、光代にとって祐一は間違いなく善人です。 自分の人生に光を与えてくれた人。 無償の愛を与えてくれた人・・・。 しかし、佳男を見て光代はそうではない人達もいる事を悟ったのではないでしょうか。 被害者やその遺族達からすれば、そして世間からすれば彼は殺人を犯した悪人以外の何者でもないのだ、という事を。 メッセージなのでは、と書いたのはあくまでメッセージの一つであって、それがテーマなのでは、という意味合いのものではありませんでした。 賛同してくださったスレ主様にも申し訳なかったので、少し加筆させて頂きます。 祐一も光代も、祐一が佳乃を殺したことについて、しかたがなかったのだとか、自分は悪くないのだとか、言い訳や自己正当化は全くやっていないと思います。 ですから、祐一が「悲劇の主人公」になる心配はないと思います。 祐一も光代も、いかなる理由があろうと人を殺してはいけないんだというくらいの常識は備えている、普通の大人だと思います。 タクシーの運転手の言葉は、まさに世間でよく言われる言い方で祐一を批判した言葉でしたが(映画館でシナリオを売っていたのですが、買わなかったのでここに正確に書くことが出来ませんが)、光代はそれに異議をはさんではいません。 祐一は悪人だという世間の言葉をそのまま受け取って、むしろ肯定しています。 ただし「彼は」とか言って、身内の者なのかと運転手に気味悪がられていましたね。 その場面からラストシーン。 「悪人」を愛してしまった光代の、言葉にならない叫び声が聞こえるようでした。 通りすがりの子猫さんにも、それは聞こえたのではないでしょうか。 それこそが、この映画の伝えたいことだったように、私には思えます。 もともと衝動を暴力的な行為 ハンドルや壁に頭を打ち付けたり)で解消する性格があったので、殺人も犯してしまったわけで、今回もそのような気質のためかと思いました。 光代のために演技をしたというのは、殺さない手加減でしているように見えませんでしたし、自首する前にも「どうしたらいい?」と聞くような人物なので、そんな器用なことができるように思えません。 突然パトカーが来て、この時だって混乱しているでしょうし。 祐一は光代には溢れる愛情を持っているのは確かなので、警官に引き剥がされた後には衝動が終わり、光代を求めて手を伸ばす普通の愛情表現になったのではないでしょうか。 それと、光代が犯人隠避に問われないためということですが、自分も殺されかけたかどうかでその罪は変わるのでしょうか。 光代も正直に話をするでしょうし。 結局、もともと逮捕するほどの罪ではないと判断されたのではないでしょうか。 逃亡の車を運転していたのは祐一です。 きっかけを与えたにせよ、祐一自らの気持ちが自首より光代と一緒にいたい(つまり逃亡)と思った結果の行動だと思います。 原作はよんでいません。 いかがでしょうか?• 「悪人」の素晴らしいところは、全体を通して台詞で誘導しないところです。 台詞で言ってしまうところを、役者の表情やシーンの長さ、小道具、編集のモンタージュなどを巧みに駆使して、登場人物の内面を淡々と描いていきます。 「彼はやっぱり世間で言われているような悪人なんですよね…」 は言葉尻だけとれば、その意味ですが、この断定台詞の後のカットに、夕日を見るシーンが来ます。 そこには、とても悪人とは思えない妻夫木の澄んだ表情と深津絵里の瞳に浮かぶ涙が映されます。 あのシーンを見て、誰がこの二人が悪人であると思うでしょうか?つまり、モンタージュの巧さで、前ゼリフへのアンチテーゼを演出しているんだと思います。 「世間で言われる悪人なんですよね?でも…」というメッセージがラストのエンドロールに託され、後はお客さんの心の中で考えて下さいということだと思いますよ。 そして、ここでみなさんがいろんな感じ方や捉え方をして、それについて論じてること、これこそがあの映画がもたらしたメッセージであり、演出の目的だったんだと思います。 そういう意味でも、あの映画の深さがわかりますよね。 素晴らしい映画だと思います。 この作品を観終わった時に、まっさきに頭に浮かんだのが映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」です。 作品の趣旨は違いますが、やむおえず人を害す状況に追い込まれ、その果てに・・・という背景がシンクロしたからです。 すみません、ygさん。 けっして上げ足をとるわけではないのですが、私が言いたかったのはあなたが言うように「そこには、とても悪人とは思えない妻夫木の澄んだ表情と深津絵里の瞳に浮かぶ涙が映されます。 あのシーンを見て、誰がこの二人が悪人であると思うでしょうか?」と観客達が思ってしまう事がとても危険である(悲劇の主人公)、という事だったんです。 前に「それでも、たとえどんな理由があろうとも、殺人を犯しては絶対にいけないんだ」と書き込んだ時に、ある方々からは「そんなありきたりのことを伝えたいというのが動機なんでしょうか」と一刀両断された事がありました。 確かに、人を殺してはいけない、なんていうことは小学生でも知ってるありきたりな事ですよね。 でも、そのありきたりなことを犯してしまった為に悲劇が始まり、この作品のバックボーンにずっとあり続けているのもまた事実なんです。 祐一の人柄や、その後の苦悩に苛まされる様を観て、祐一や光代に感情移入する観客達が沢山いるというのも分かります。 でも、この「悪人」は群像劇です。 最愛の娘を奪われた父の姿も終始克明に描かれています。 それにワンシーンですが、光代の妹の珠代との電話のやり取りでも、祐一達が世間に及ぼしている状況の一端を垣間見る事が出来ます。 そこに至るまでの各人の過程や動機は様々ですが、全て事象をフラットな視線で見る事をした時に、やはり祐一の犯した罪は大罪であり、それは許されざるものとして、この作品の背景に絶対的な存在感をもってあり続けています。 劇中、私の記憶が確かなら、この表題にもなっている「悪人」という言葉が使われたのは、このタクシーの中での会話が最初で最後でした。 ここまで祐一達の身も引きちぎられそうな想いを見守ってきた私達に最後の最後で突きつけられた言葉が、この「彼はやっぱり世間で言われているような悪人なんですよね…」だったんです。 否定したい気持ちは分かります。 でも、だからこそこの作品はすごいのだと思います。 もちろんygさんの意見も正しいのだと思いますよ。 世間では私のような考え方をする人の方が少ないでしょう。 でも私もygさんと同じく、この作品を本当に素晴らしいと思っています。 長文失礼致しました。 おそらくこの作品が冠している「悪人」というタイトルの通り、「誰を悪人と断定するか」という矮小な問題に落ち着くのがこの映画の意義ではないと僕も思います。 「殺人」という現象だけ捉えれば、確かに主人公=殺人者=悪だというのは間違いありません。 そして、これに意義を唱える者もいません。 犯した行為に対する罰則は当然なされるべきですし、そうじゃなければ社会は成り立ちません。 その裏にどんな理由や事情があれ、犯した罪は裁かれなければならないのは社会に生きる人間として当然の帰結です。 しかし、その「裁き」というのは、あくまでシステムであり、ルールです。 人間が生きていく以上、システムで答えが導き出されることばかりではありません。 この作品は「悪人」という概念を多角的に捉えていることは言うまでもありませんが、その証拠に、作中に出てくる人間を見ると、明らかに観客が嫌悪感を持つ人間が数多く出てきています(樹木希林を騙した詐欺の男性、その仲間、そして、殺された被害者の女性や車から蹴り落とした大学生など)。 しかし、その中の誰ひとり裁かれません。 そして、裁かれるのは、観客がドラマを追うなかで感情移入し、そして、「本当に彼は悪なのか」と疑念を持つ主人公ひとりです。 これは何を意味するかというと、単に「殺人」という現象だけ提示された場合(ニュースなどの報道的なもの)に抱く感情値と、その現象が起きるまでの過程や事情が情報として提示された上で、改めて現象に対し抱く感情値(これこそが、小説や映画で描く人間ドラマや事件の背景)との祖語です。 起きた現象は同じでも、その裏に隠された人間の想いや事情を知ってしまうと、受け手が持つ「悪」の印象が変わってしまうということです つまり、この映画のドラマの中には、加害者=悪、裁かれる者=悪という単純なシステムはすでになく、悪が裁かれない場合もあるし、善が裁かれる場合もある、そして突き詰めれば何が悪で、何が善なのかも捉え方ひとつで逆転するということなんだと思います。 それほど善悪というものは抽象的なものであり、少しのズレや掛け違いで逆転してしまうナイーブな概念なのかもしれません。 そして、そういうナイーブさを伴う理由にこそ、当事者及び、受け手が抱く「人間感情」という曖昧模糊なものが関わってくるのだと思います。 もちろん、通りすがりの子猫さんのおっしゃっている「現象に対する裁き」は当然の考え方ですし、そういう見方もひとつだと思います。 その他、レビューされてる方、たくさんいらっしゃいますが、その方々ひとりひとりが別の解釈を持っていてもいいのだとも思います。 そして、前のレビューでも書きましたが、この「悪人」という作品の存在意義は、観客を答えのない袋小路に追い詰めることなんだと僕は思います。 映画を見終わった後も、心の奥に澱のように何かを残し、こういうレビューで人の意見を読んだり聞いたりしながら、自分なりに「善悪」について感じたり、深く考えたりする機会を持たせること、それこそがこの作品が描かれた意義であり、意味だと思います。 別に反論しようと思って書いたわけではありませんので、その点は誤解しないでいただければと思います。 そして、何よりも、ここに書き込みをしている皆さんが本当に「悪人」という作品を愛し、深く享受しているという事実が、僕的にはちょっと感動してしまうくらいです。 こういう形で様々な意見が飛び交うことこそ、「悪人」を作った作者が望んでいたことなのかもしれません。 そういう意味でも改めて、良い作品に出会えたなと思っています。 すみません、一応返信という形で、前のレビューで言い切れなかったことを書いてみました。 長文失礼致しました。 この表題の「悪人」とは「悪人とは誰なのか」ではなく、「悪人とはいったいなんなのか」に行き着くのかもしれませんね。 本当に考えさせられる作品であり、観る人それぞれ100人が100の答えを持ちうる可能性をもった深淵の作品だと思います。 製作者の能力がないが故の綾では? 手前までは堅実に作られた作品だったんだけど。 つれは、最後の最後に悪人が正体を見せたのだ、といってます。 私は妻夫木君が深津絵里さんの今後のためにあえてやった、むしろ優しさなのだと。 キスも、伸ばした手も、素直な愛情の表れ。 結果的に光代に有利になっただけ。 タクシーに戻ったのは、やり過ごすため。 真実はどうであれ、世間的には、法律に触れることをした者が悪人であり、両面性をも愛した結果のセリフだと思います。 つまり結局はすべて愛情の裏返しなんですけどね。 僕はそのように感じました。

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映画「悪人」ネタバレ感想 本当の悪人は誰だ!?

悪人 レビュー

深津さんがモントリオール世界映画祭で女優賞を取ったので、原作を読んでみました。 映画『悪人』のHPをみてみると『誰が本当の『悪人』なのか?』ってことらしい。 確かに。 主人公より憎いキャラはいるね。 でもって、舞台は長崎とか佐賀とか福岡とか、九州の北のほうです。 そして主演の妻夫木君は福岡出身。 深津さんは大分出身なのね。 素の方言が出ているのかな。 こりゃー、映画がみてみたい。 途中で出てくる呼子のイカのお店。 行ったことあるんじゃないの?って感じながら読みきりました。 本を買った時に、この映画の予告編のプロモが流れていて、買った時は何も感じなかったけど、読み終えてから見た時、柄本さんの雨のシーンで泣きそうになってしまった。 一応、おいらも娘2人の父親なのでね。 吉田 修一(よしだ しゅういち) 1968年長崎県生まれ。 法政大学経営学部卒業後、スイミングスクールのインストラクターのアルバイトなどを経験。 1997年「最後の息子」で第84回文學界新人賞を受賞しデビュー。 同作は第117回芥川龍之介賞候補にもなった。 2002年『パレード』で第15回山本周五郎賞を同年「パーク・ライフ」で第127回芥川龍之介賞、2007年『悪人』で第61回毎日出版文化賞及び第34回大佛次郎賞、2010年『横道世之介』で第23回柴田錬三郎賞、2019年『国宝』で第14回中央公論文芸賞をそれぞれ受賞。 2016年には芥川龍之介賞選考委員に就任している。 その他の代表作に、2014年刊行、本屋大賞ノミネート作の『怒り』。 2016年に映画化され、数々の映画賞を受賞。

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