狭き門 と は そもそも 何 の 門。 狭き門でも志望者数は増加!医学部受験者に聞く平均睡眠時間と気分転換の方法|@DIME アットダイム

『狭き門』ジッド

狭き門 と は そもそも 何 の 門

「狭き門」の意味とは? 「狭き門」の読み方と聖書の解釈• 「狭き門」の英語 解釈• 「狭き門」の言葉の使い方• 「狭き門」を使った例文や短文 解釈• 「狭き門」の類義語 「狭き門」の意味とは? 狭き門とは、 「厳しい状況」や 「困難なこと」に対して使われる言葉です。 それが行える 達成する 可能性がとても低いと感じた時に、それをこの言葉で例えて用います。 簡単な例を挙げると、 「東大合格は狭き門だ」といったように使います。 色々なことを例えて使える言葉ですが、上の例のように、合格や不合格が絡むことに対して使われることが多いです。 「倍率が30倍の狭き門だ」などという使い方はよく見聞きする形で、自分がそうだと思うことに対して使うだけでなく、世間でそのように思われていることによく使われています。

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『狭き門』ジッド

狭き門 と は そもそも 何 の 門

生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出す者少なし。 〜新約聖書「マタイによる福音書」第七章より〜 恐らく、現代。 世界中で原因不明の新型ウイルス感染が広まり、不安な状況が広がりつつある。 「世界の終りと新たな始まり、更新の日は近い。 」そう書かれた不気味なビラが各地で配られ、さらに人々の不安を煽っている。 東京近郊の少し寂れた感が漂う街にあるコンビニエンスストア。 会社を辞めた天野は、父親が経営するそのコンビニへ数年ぶりに帰ってきた。 そこでは病に倒れた父親の代わりに、弟の雄二が店長を務めている。 ひょんなことをきっかけに、天野とコンビニに集う人々が、「世界の更新」が間近に迫っていること、どうも人類は試されているらしいことを知ってしまう。 そして、このコンビニが「世界の更新」に関係しているらしい、ということが徐々に分かってきた……。 ママリンがちょっと前から「蔵がいい、蔵がいい」とのたまっておったのであるがそれもただ通り過ぎて行くだけの人で(は?)今までも「玉木宏がいい」だの「瑛太さんがいい」だのあたしが見るドラマをチラ見しながらつまみ食い(爆)してるだけだと思ってたのがどうやらくらりす(佐々木蔵之介氏)に関しては結構な本気度合いらすぃーってことで今回舞台あるけど行ってみる??と誘ったらいちもにもなく乗って来た。 (は?)とりあえずチケットは取るには取った(しかも大阪楽昼公演で25列 32番・33番しか取れなかった…。 黙)けどその後くらりすと豪華ランチフルコース(てっきりディナーだと思って「無理無理っ!」と思っておったらば土曜日のランチタイムでしかもこの公演の次の週だったりで2週続けてあたしは仕事休むわけにもいかないしママリンはママリンで2週続けて家を空けられないってのもあって見送ったのだった…)なんつーのが出てもしかしたらピンでじっくり観るんだったらこっちの方がお芝居よりもよかったかもしれない…(滅)と思いつつももう取ったんだから仕方あるまい。 (だから!)そしてどうやら今回の公演はTeam申公演の一貫らすぃー。 何か意外。 (は?)今までTeam申と言えば2人芝居で来てた(つってもまだ2回しか公演やってないけど。 苦笑)からてっきりそういうもんだと思ってたからいきなり大所帯でびつくり。 (大所帯っつっても6人しかいないけどなっ!)あたし的に「これだけはどうしてもっ!」っつー人はいないのだけど(おい)Team申はなーんとなく気になるので行きたかったからいいのだ。 (えー…)つか前回「抜け穴の会議室」(観劇日記No. 206参照)も前川(知大)さん作・演出でどんぴしゃだったんで今回も前川作品だし期待度は高い。 (え?)タイトル的にはまたしてもそっち系(は?)なニオイがぷんぷんするのに会場行ってみたらばコンビニのセットがそっくりそのままステージ上に出来上がっててびびったー。 何だ、この展開??(おぶおぶ)コンビニ強盗がどうにかなる話なのか??(んなわけねー)いちお中学・高校となんちゃってミッション系(爆)な学校だったので宗教の時間とやらがあって「天国は狭き門」の下りなんかはうろ覚え(だって宗教の時間は寝る時間になってたから…。 爆)ではあるけれどもなーんとなく聞いた気もしないでも…ない??(パンフの聖書の下り見るまで「どっかの小説で読んだんだっけ??何かの話で聞いたんだっけ??」とか思っておったよ。 苦笑)けどだから何故コンビニ…??(もういい)席は残念ながら最後尾なのでオペラガン観でしかしょうがないんだけどざっと観てみたらば「この棚にある商品は次の入荷は未定となっております。 苦笑)ますます意味が分からないんですけど??(おぶおぶ)そうやってコンビニが舞台になって始まるのかと思ったら最初のシーンはがーんっ!と幕が降りて駅のプラットホーム??陸橋の鉄柵の向こう側??か何かなのか蔵が今にも飛び降りようとしてるのかただふらふらと下を覗き込んでただけなのかはしらないけどとにかくそれを止めたんであろうお亀ちゃん(爆。 市川亀治郎さんのことね)っつー構図でだから何がどうなってるんだよぉぉぉぉぉっ???!!!(落ち着け)や、まぁ観てるうちに追々分かっては来ることなんだけどこのお亀ちゃん演じる葉刈っつー人物はくらりす演じる天野の昔からの友人らしいんだけど謎の組織(爆。 とにかく更新を司る人たちのことね)の言う「こっち側の世界」では死んだことになってるみたいなんだけどとにもかくにも犯罪被害者で奥さんと子供を通り魔殺人的に殺されちゃったみたいでそれでそういう犯罪被害者の会みたいなのに入って運動とかもしてたのに結局は自分たちみたいな被害者側が優遇されることはなくどっちかっつーと犯罪者の方が優遇されてるみたいな世の中っつか法律だとかに納得が行かなくなって自暴自棄になって自殺したみたいになっちゃってるけどホントのところは失踪してて(お葬式の時も死体は見つからなかったみたいに処理されてたんだとか??)とにかくその世界の更新に手を貸すことになってたみたいで。 天野はそんなこと今までこれっぽっちも知らなかったんだけどどうやらその天野と雄二(有川マコトさんの役どころ)兄弟の父親が「あっち側の世界」へ渡るための門番の役目っつか柱になる役目を引き受けてたんだけどその父親自身は今脳梗塞だか病気で入院しててとてもじゃないけどその更新の日まで持たない、と。 それでまぁ万が一のことがあったら柱の役目は弟の雄二に任せるってことを遺言代わりに岸(手塚とおるさんの役どころ)に伝えてて柱になっちゃった人は更新後は向こうの世界には渡れないままこっち側の世界に残される(門を閉めなくちゃいけないから必然的に)んだけど家族特典ってのがあって柱になった人の家族は無条件で向こうの世界に渡れるのだとか。 そんな話をしちゃうと「何で俺が??!!」みたいにもなりかねないからってので柱になる雄二には伝えられないまま更新の日を迎えようとするんだけど天野は葉刈からいろいろ聞いちゃったもんだから「残るんだったら俺が残るから!」っつーので何とか今まで省みなかった家族とやらを助けようとするんだけど…みたいな大雑把に言えばそういうお話。 (えー…) 確かに岸の言う通り「こっち側の世界」とやらは随分と物騒なことになってるし3年で滅びてしまうってのもあながち間違いじゃないかもしれない。 だけど資格のある人だけが「向こう側の世界」に渡れるってことになっててどうやらそれが蔓延してるウイルス感染者(っつっても何日か高熱が出たなー??と思ったら急に昏睡状態に陥るっつか眠り病に罹ったみたいになっちゃってそのままずーっと目が覚めないのだそうな。 って…この設定、「戸惑い男、待ち女」(観劇日記No. 275参照)も似たやうな感じだったよねー??!!(おぶおぶ)新型インフルエンザみたいなのは嫌だけど(おい)眠り病みたいなのだったら罹ってもいい…かな??(爆)つかウイルスモノ流行ってるなー!(感心)現実的で身につまされるわ!)がソレみたいで「自分が!自分が!」みたいな他人を押し退けてでも向こう側の世界に渡ってやるー!!!みたいな人はダメで周りのことを思いやれる人ってのがいい…のかな??結局3分の1ぐらいは間引かれてこっち側に残されることになっちゃうらすぃー…。 天野と魚住(中尾明慶くんの役どころ)と時枝(浅野和之さんの役どころ)は偶然っつかたまたま向こう側の世界に更新前に渡っちゃってそういう話を岸から聞かされてすっかり前知識として「渡れるか、渡れないか??」みたいなのが分かっちゃったわけでしょう??全然全く何も知らない雄二と比べたらやっぱりそこはどうしても知っちゃったんだから渡りたい!って気持ちになるのが人情でそ??…あ。 でも今までウイルスにも感染してないぐらいだから結局元々の資格はなかったってことになるわけで情報として知ったとか知らないとかもなくとりあえず行けるはずもなかった向こう側の世界に無理矢理行こうとしてる人たちってことになるわけだ??(苦笑)うーん…でもなー…。 こっち側の世界が3年で滅びるってのは分かる。 でもさ向こう側に行ったからって永久的に助かるわけでもないんでそ??(え?)向こう側に行ったらこっち側にいたことの記憶もなくなるし姿かたちはそのままだけどまた1からリセットされて理想の世の中を形成してく人物になり得るってことにはなってるんだけどさー人間ってそんなに簡単には変わらないと思うじぇ??(爆)こっち側の世界だって人間が生まれてこの方それなりの歴史があるわけで急激に今みたいな世の中になったわけじゃないでしょう??数が増えるから争いが起こったり自分が一番になったりしたいって思う人が出て来るわけで人間がこの世に出現したその瞬間からどんぱちやってたわけでもないでしょう??そりゃまぁ他の生物たちを滅ぼしたりそれなりに迷惑もかけてただろうけど最初の頃はまだ自分たちが食べる分だけ捕ってればそれで事足りただろうし共存だってちゃんと出来てたんだと思う。 それがいつの間にか知恵をつけてたくさん捕って保管しておけばいいことが分かったりそういう道具が出来たりで自分たちで食べる以上のモノを捕ったりそういう道具の出す二酸化炭素だとか何やらで地球温暖化になっちゃったりどんどんそうやって自分たちで自分たちの首を絞める結果になってる。 それでそのことに自分たちはちゃんと気付いてるはずなのに自分たちが死ぬまでの間に大変なことにはならないからってので問題をどんどん先送りにして後のことは知りませんみたいな感じで道具を手放したりラクな生活を改めようだとかこれっぽっちも考えたりしない。 みんな結局は自分勝手なんじゃないか。 そりゃぁ中には「このままじゃダメだっ!」っつってラクをしない生活に戻ることを選択したり次の世代のことを考えて自分たちのこととして問題を解決するために頑張ってる人たちもいる。 でも残念だけれどそういう人たちは今はまだ少数派でしかない。 あたしだって「このままじゃダメだなー…」なんて考えることぐらいはあるけどやっぱり毎日はそのままでなーんにも変わらないし変えようともしてないことの方が多い。 (黙)これじゃぁ絶対に!神様に選ばれるやうなことはあるまい…(滅)って感じなんだけどそもそもが神様を信じてる人じゃないから根本的にダメっぽい。 (苦笑)岸は選択権を持ってるみたいだけどでも神様…ってのとは違うみたいだし…。 どっちかっつーと死神に近いかもー。 (爆)何かそのぉー…音もなく忍び寄って来る感じとか??(え?)だって絶対どこかのバックヤードからだとか出て来てるはずなのに気が付いたらいつの間にか手塚さんが舞台上にいてそりゃまぁ主役じゃないんだし蔵だとかお亀ちゃんだとかに気を取られてる隙にそそっと出て来てるのかもしれないけどいつもびっくりするぐらいに自然にそこにいるんだよねー…。 しかもびっくりしたはずなのにいることが自然過ぎて何かそっちの方が当たり前な感じもして「あー…そうだったー…」って改めて気付くっつか生きてる気配がしないのだ。 (おい)でも更新されてリセットされて新しい世の中はそれは最初は理想そのものだろうし楽園になるんだろうし争うこともなく平和で人々も安心して暮らせる世の中で…ってそれはどこの党のマニフェストなんですか??(爆)っつーぐらいの世の中だったとしてもだ。 結局数を増やせば争いごとが起きて優劣を付けることに躍起になって富める者が栄えて貧乏くじを引いた人は淘汰されて行く。 そうやってまた危なくなったらどこかに違う新しい世界とやらを作って渡りをすればいいってか??そんなのやっぱり間違ってる。 根本的な解決になってない。 どこかで喝を入れないと!…ま、そう言っても台風だ、洪水だ、大地震だ、戦争だ…って本気で死ぬやうな目に合ったってそこから力強く立ち直るのもまた人間であー…だから人間には希望があるのかないのかどっちだっ??!!決められないおっ!!!(爆) 天野はシステムがあることを知ってしまった上でそれでもこっち側に残ることを選ぼうとする。 そうやって最終的に自分以外の人間を救おうとする。 その必死さには確かに打たれたし観てる時はホントにもう泣きそうになるぐらいにぐらっと来ちゃっててこういう人が1人でもいたらダメだ、ダメだって言われてるこっち側の世界にも何かしら希望が持てるかもしれない…!みたいなのは感じたんだけど。 でもさ自己犠牲って言葉に人は弱いよね??(え?)後先のことを何も考えないでホームから落ちそうになってる人の命を救って自分は命を落としてしまった。 その自己犠牲は尊いし誉められたもので人間の美徳みたいなものも感じられる。 だけど天野はあの瞬間更新される世の中のシステムを知っていた。 「家族だけは救って欲しい!」「友達だけは救って欲しい!」「自分はどうなってもいいから!」そう言った。 だけど瘤取りじいさんの話で行けば天野は1人目の全く下心も何もなくただ踊りたかったから踊っただけのお爺さんじゃなくて助けたい人がそこにいたから、それが自分の知ってる人だったからだから残ることを選んだ、だったら踊りたくて踊ったんじゃなくて何かして欲しいことがあるから踊ったお爺さんと一緒ってことにはならないか??最終的に柱になった人は家族特典は付いて来るけれど不特定多数の人を助けて自分は門を閉めるためにこっちの世界に残らなくちゃいけなくなる。 結果的には自分の助けたい人を助ける以上に知らない人たちを助けることに繋がってるわけで自己犠牲にはなるわけだけど完全な利己と切り離した自己犠牲ってわけじゃない。 岸はそれでもいいってことで柱になる役目を雄二から天野に振り替えたわけだから自己犠牲っつー資格の有無みたいなのは完全に融通の利かないものじゃないみたいだけどそれでも何かしら疑問の残る自己犠牲のやうな気がする…ってやなヤツだなー、自分。 (黙)あたしだったらどうするだろう??「家族だから助けて欲しい!それだったらあたし、残るから!」って言えればいいけどその時になってみたらば「家族なんてどうでもいいから!あたしから先に助けてよ!」って言うかも。 (爆)…あぁまたしても資格がどんどん遠のいてるよ…。 (どよん)でもそうじゃない??全くの他人を救える。 これは文句なく素晴らしいこと。 家族を救える。 これもまた素晴らしいこと。 だけどそんな簡単にそれって出来ること??あたしは自信を持って「出来る!」とは言えない…かなぁ??(小)その場になってみなくちゃ分かんないよねー…って完全に問題先送り人間ですか。 (爆)いやまぁ実際こういうのは難しいと思うよー??親子とかだったら親は子を助けて当然!みたいなさ、あるじゃない??雄二だって「子供だけは…!」みたいなこと言ってたし。 仮定ではあったけど。 (苦笑)でも夫婦だったらどうよ??(え?)その時になってみてさーお互いに「あたしが!」「俺が!」みたいなことになっちゃったりしたらどうするー??でもあり得なくはないよね??遅かれ早かれ死ぬってどこかで分かってるつもりでも悪足掻くでしょうよ??(苦笑)最終的には殺し合いになったりもするかもねー??(おい)だからこういうのはこっそりと内緒でやるのがいいんだよ。 (え?)で。 そうやってリセットされた向こう側の世界では今まであったことも忘れて今までと一見同じやうな日常が繰り返されてる。 どういうわけかこっち側と向こう側の電話は通じてるやうでコンビニから掛けた電話はコンビニに繋がる。 その時の雄二は天野からの電話が誰からのかさっぱり分からないし自分に兄弟がいたこともすっかり忘れていたずら電話か何かと思っちゃう。 でも向こう側の世界に渡る瞬間門がいよいよ閉まろうかって時に雄二が天野に一瞬「兄さん…っ!」って呼んだのは「うわー、もうこの瞬間泣くわー!!!」って思った。 向こう側の世界のことを知ってしまった罰??として岸は向こう側の食べ物をみんなに食べさせた。 そうすればこっち側に肉体的には戻れたとしても知り合いだとか家族に会っても本人なのに本人って認識されない、誰だか分からない状態になっちゃうらすぃー。 それだから雄二は自分に兄さんがいたことはちゃんと分かってるしその顔も分かってるのに目の前にいる本当の天野が本当のお兄さんだってことが分からなくて誰だか分からないけど親しげに話して来る何かちょっと顔見知りのやうな気もしないでもない人(は?)みたいになっちゃう。 それなのに向こうに渡るその瞬間。 何をどう思って「兄さん…っ!」って言ったのかは知らない。 ちゃんと天野を兄さんだって認識して呼んだのかそれとも反射的に「(じゃあんたはもしかして…)兄さん…っ?!」な?マーク付きだったのかもしれない。 (えー…)いやーでもあの台詞があるのとないのとじゃ全然違うね!…ってうだうだと自分だったらどうする??を考え過ぎてとんでもないとこまで行っちゃったやうな気もしますが…。 (苦笑)いつか「俺はいいからお前は行けよ!」って言ってくれる嫁希望。 観劇中の注意なぞが流れた後何やらどこかで聞いた声がー?!と思ったら2回目公演の相方(爆)の仲村トオル氏からのご挨拶をば。 今回も呼んで貰う気満々で楽しみにしてたのに何で声掛けてくれなかったのか??!!ってやるんだったら企画段階からこっちに話を回して来いっ!みたいなことを延々言っておられますた。 (苦笑)いい声だー。 (爆)そうそう。 アドリブ拾いじゃないですがー。 途中魚住が誰にも認識されない!(みんなが認識されなくなる前に天野の鞄を盗んで血糊代わりに向こう側の世界でケチャップ手につけてたの舐めちゃったから)ってコンビニに飛び込んで来て「僕、鞄盗んだ犯人なんですけどっ??!!」っつって天野から追い掛け回されるシーンで勢い余ってばーんっ!って奥の棚にぶつかっちゃってそれがたぶん計算違いでものすんげぇ中尾くん的にびっくりしちゃったみたいで止まって台詞言わなくちゃなのにはぁはぁ肩で息してて蔵もさすがにちょっと間空けてあげてたりしてますた。 (苦笑)…事故…だよね。 (おい)ちょっぴり可哀想だけどちょっぴり楽しかったのん。 (おい)あぁそうそう。 最後蔵が向こうに渡る資格とやらを力説するシーンで蔵のバックにある棚がちょうど究麺(きわめん)の置いてある棚で狙ってるわー!と。 (爆)…まだ喰ったことないけど。 (えー…)カテコは挨拶もなくそそっと終わるかと思ったらば3回目ぐらいでグッズを売るためだかコンビニでTシャツとエコバッグを買うショートコント(違)が繰り広げられたり最後までお楽しみ感満載で御座いましたことよ。 お亀ちゃんも歌舞伎走りしたりしてたし。 (は?)最後は手塚さんに蔵が扉前でシャットアウトされてピンでお辞儀して終了ー。 ママリンは例のごとく途中向こう側の世界の風景の暗さに意識がなくなり(爆)寝てたとこもあったやうでしたが何とか最後まで付いては来れてたやうですた。 (苦笑)でも。 観劇前に「絶対に!観てる間に「あれは誰ー??」とか「あれはどういうことー??」とかあたしに聞いて来ないでね??」とがっつり釘を刺しておいたおかげでそれはなかったんですがー。 観終わった後に「何か凄いねー??!!あんなさーすらっと台の上(コンビニのレジ台のことね)とかに飛び乗れたりしてさー。 やっぱり蔵、凄いっ!!!」と感心しきりだったんですけど…そこ??(おぶおぶ)あー…何かあたし、この人の娘だなーと思ったわ。 (は?)あたしはくらりすにはさすがにそれは思わなかったけどこないだ「キサラギ」(観劇日記No. 276参照)でなきゃやまさん(中山祐一朗氏)に「今はっ!って机に飛び乗ったおっ!すげぇー!!!かっけぇー!!!!!」とか思ってたわ。 (苦笑)血は争えねぇー。 (黙)席は遠かったけど(おい)それなりに満足したやうだったのでよしとしましょう。 (は?)つか「あの黒い人、誰??!!」って思いっきり聞かれたので「手塚さん??あたし、結構好きだよ??」っつったら「あー分かる、分かるー」とか言われたんですけど…何が??(おぶおぶ)ま、あたしは脇役ふぇちですけれどもっ!(は?)いやいや、まぁ密かに蔵喰っちゃうぐらいに手塚さんの脅威っぷりは凄かったっつーことで。 (えー…)次イキウメも大阪公演やっとこあるみたいなんでぜひぜひ行きたいんですけどこれがまたタニマチ金魚と日程丸被りだっつのー。 (黙)いやいやまぁ何とか予定の帳尻り合わせて行きますよっ!がっつ。

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狭き門(せまきもん)とは

狭き門 と は そもそも 何 の 門

「崇拝されるより、欲情されるほうがはるかに幸せだと思う」 中山可穂の「白い薔薇の淵まで」の一文です。 崇拝を排除し、欲情に特化し、単純化されていく幸せ。 恋愛とレンアイの、少なくとも表面的な違いを、 端的に示しているかもしれません。 小難しい文学などではなく、小中学生が読み始めるカナダの「赤毛のアン」で、 19世紀の古風な恋人は、崇拝者 adorer と表現されます。 歌の意味を知りたい方はご検索ください。 つまり、崇拝は欧米にあって、大衆の恋愛沙汰の中に根付いているわけです。 日本で、男性が、女性に、崇拝していますと書き送ったら 女性はひょっとして感動するのかな? でも、男性の同性の友人が聞いたら、何を文学趣味で気取っちゃってとか、 何か女性をカネにするための言葉のワナか、とかロクな目にはあいません。 中山可穂は「体を交わすごとに欲望は昇華され、あとには切実さだけが残った。 だから抱き合えば抱き合うほど、わたしたちはせつなくなっていった。 純愛はあとからやってきた」などとも書いています。 Serge Reggiani セルジュ・レジアニ Le temps qui reste 進まぬ時 言葉でなく、体で最もよく語り合う恋人たち。 そういう形もあるでしょう。 でも、言葉でも体でもよく語り合う恋人たち、にはならないかしらん? 日本人にとっては以心伝心が一番。 言葉は究極、邪魔者かもしれません。 中山可穂の作品は4冊ほどしか読んでいませんが、 知る限り、人は肉化された以上、 欲望は自明なものとして描かれているようです。 自明、つまり当たり前、というなんとも無邪気な肉欲の在りようは、 智恵の果実を食べる前のアダムとイヴとほぼそのままです。 、 それは、性愛を拒み、聖なる愛へと 汚れない天上での愛(天上の愛ではなく)を夢みて わが肉を削るようなアリサと、ある意味で対照的です。 (そのような夢では、アリサは救われないのに。 アリサはわかっていません。 天上で叶えられる愛でなくとも 自身の肉体に新しい見方をして、肉体を再発見できていたら アリサは聖らかな性愛を地上で実現できていたはずなのに) バーンスタインがウィーンフィルを振っています。 Mahler Symphony No. 3 マーラー;第3交響曲 とくに25分ほどかかってしまう 6mov. 最終楽章を。 オリジナルの楽譜にははじめ 「愛がわたしに語ること」と副題がありました。 ガリ・ベルティーニがN響を指揮したパフォーマンスが キリッとして、また豊かにニュアンスに富んでたまらないんだけど。 エンディングなんか、アリサの死とイメージが重なります。 彼女の死は、女性の小さな胸の中の出来事だけど 壮大な討死と言っていいのかもしれない。 七面倒な恋愛より、歌垣で会ったその日に・・・の速攻の恋。 遠い遠い神代の昔から、日本人にはむしろおなじみのワンナイトスタンド。 必ずしも永遠を願ってのことではない。 大らかな、立ち止まってためらうことのない 日常的な性こそ、万葉以前からの 日本の伝統の色恋といったものでしょう。 基本、源氏物語だって同じです。 世界の宗教家の常識からすると 妻帯が許される日本の仏教は驚きというか 笑止の沙汰のようです。 ですが、それが日本的というもので・・・。 非僧非俗の親鸞上人が六角堂で参篭中、夢うつつのうちに救世観音が現れ、 行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽 と告げます。 親鸞よ、そんなに女性から離れられないのなら 私が玉女(玉のように美しい女性)の体となって おまえに抱かれてやろう という淫夢です。 優しさがありますよね。 男性としては ひたすら頭を下げ、感謝するしかありません。 Serge Lama セルジュ・ラマ Toute blanche すべてが白い ですが、たとえば「ドリアン・グレイの肖像」から引用した 「知的な承認によって欲望を正当化したのだが、 その正当化がなされなくても、欲望はやはり 彼の気分を支配していただろう」といった問題は まったく意識にのぼってきません。 西洋の恋愛で問題となる 知的な承認は、 アリサのような明確な形ではついに、日本にはないようです。 そこも日本型なんですね。 自己の性を厳しく見つめることが ないほうが、むしろ伝統的であり日本的なんです。 そんな日本人としての素地があってこそ、親鸞聖人は 妻帯も可能と考えることができたのでしょう。 Jaqueline Du Pre ジャクリーヌ・デュ・プレ が演奏する Les larmes de Jacqueline ジャクリーヌの涙 Offenbach オッフェンバック ただねぇ、天竺へお経を取りに行く西遊記の三蔵法師は なぜ偉いんでしょう?行く先先で、徳が高い僧侶だから 食べると長生きできるとか狙われちゃって?なぜ高徳なのか? そんな疑問、持ったこと、ないですか? それって結局、女犯(にょぼん)の戒を徹底的に守っているから ではないでしょうか?キリスト教で言う情欲の大罪を全く排除 できている人間と言う存在は、そりゃ清らかなお坊様と認定です。 (ちなみに猪八戒が猪か豚か?は、どちらも正解ね。 猪は家畜化されて豚になったのですから元は同じです) Luigi Tenco Mi sono innamorato di te 夜の想い 一方、西洋にはやはり睡眠中、女性を襲うインクブス(Incubus) 男性の夢精を促すスクブス(Succubus)という夢魔がいます。 同じ淫夢でも、西洋はぐより具体的というか、ドギツイというか。 日本と西洋は、かくも違うのです。 恋愛のあり方が違うのは当然でしょう。 恋愛とレンアイなのです。 相手へのアプローチも、自身の想いの持ち方も、違うのです。 ご愉快好きということか。 好色なんて言葉もご陽気な色彩を帯びる、大笑いのバレ句です。 二人とも 帯をしやれと 大家言い 相模下女 気が狂ったか いやと言い 弁慶と 小町は馬鹿だ なあかかあ Rafael Amor ラファエル・アモル Cancion para una lagrima ある涙のための歌 江戸の下女の最大の供給源は相模の国。 絶世の美女、小野小町に振られた男どもが あの難攻不落はなんなのだ 女性としての機能を備えていな い、いないからできない、 できないからオレを振ったのだ、と我田引水、 お気楽ポンチな面白話で一件落着しちゃう与太話。 そんな奇怪な都市伝説がそのまま裁縫用語になっちゃった。 で、 庶民はそんな耳学問で性の世界に自然になじんでいくわけで。 いくら肉欲と衝動の赴くままってったって ちゃんと、うまくやれよぉwww. (ともかく、そこに魂の絶対性はなさそうです) もっとも告げ口したり、噂するヤツも 正義のお面をかぶって、実は単にやっかんでいる。 他人様のご愉快が羨ましいんですよ。 他人は他人、自分は自分、ほっとけよぉ。 Iva Zanicchi イヴァ・ザニッキ Testarda io La mia solitudine 心遥かに ま、不倫の名にも値しない間男騒動、つい出来心のような密通が たいていで、金銭解決が主流ですから、ばれたって、 そこに直れ。 二人重ねて四つに斬ってくれるワ。 成敗! なんて 斬った張ったとか、女敵討ち(めがたきうち)とか どっちに転んでも、まず考えらんネェし。 だから西洋の恋愛がときに伴う 罪 なんて意識は見られない。 情欲は大罪というヨーロッパ的=キリスト教的感覚など 薬にしたくたって見られない。 日本人の自意識に、性を罪とする感覚は普通は、ないようです。 業(ごう)と呼べるほどの性におぼれながら アリサが苦しんだような性が持つ罪なんて関係ない。 神にそむいて知識の実を口にし、知性を持ったからこそ、 自分たちの性が恥ずかしくなったアダムとイヴの失楽園など 薬にしたくてもありはしない。 Roberto Carlos Eu Te Amo Tanto 余りに君を愛して 日本人の罪とは世間様に対してで、自分に向かっての意識ではない。 自分に対しての罪、二人に対しての罪 というのが 西欧型の本来の恋愛のポイントのひとつでしょう。 (しかし、みそかごと=密通 という表現は 色っぽいよナァ。 適当に湿ってて和風だしサ。 房事なんて、なんつうか、ちょいと事務的でネ・・・) 情人と書いて「いろ」と読むとか 江戸のこうした文化は恋愛というより 色とか情(なさけ)とか、惚れた腫れたのほうが どうも似合ってしまう。 曽根崎心中ほか 七つの時が六つ鳴りて の心中モノも 夢の夢こそあはれなれ なんだけど 論理的構成力というか、恋愛を貫く一本の筋というか 立体的じゃなくてどこか平面的。 西欧と日本と、まるで体形の違いさながらで。 三島由紀夫はその辺を意識して恋愛を書く努力を続けていました。 谷崎潤一郎など和風だし、ヘンタイだけど、あれも恋愛でしょうね。 황수정 ファン・スジョン 사랑은 그렇게 시작되었습니다 愛はそんな風に始まりました ちなみにですが、この肉体の機能不全へのあからさまな言及は 野坂昭如の小説の中で紹介されている「兄妹心中」の口説き節でも 登場しますから、どうも特異な発想でもなさそうです。 「辺り聞こえた色娘 年は十八番茶も出花 いい寄る男は数あれど 男嫌いか穴なしか いやよいやよと首をふり いやよいやよと首をふり いやよいやよと首をふり 首をふりふり 子をはらむ」(骨飢身峠死人葛) 「首をふる」の意味が、最初と最後で違うのね。 ちゃんと必要と思われる時間経過が、繰り返しの中に変化があるわけで。 全然、気づかなかったもんなぁ、高校生のこのボンクラは。 経験していないとは、そういうことです。 Perry Como ペリー・コモ My Days Of Loving You 君を 愛した日々 イタリア映画「木靴の樹」では、貧しい農夫が好意を寄せた女性に ついて回るものだから、女性は後ろを振り返って不審がります。 勇気をふるった農夫は「君について行っていいかい?」 「君の名前を訊いていいかい?」と声をかけ 女性の了解と彼の気持ちへの承認を求めます。 どうも正確に覚えていなくていけないのですが、素敵なシーンでした、 これなどいかにも西欧型恋愛の風景で、いやよいやよと首をふり の 少なくとも表面的には同意を求めないし、与えもしない情景と比べると、 かなり恋愛の質に違いがあることを示していそうです。 もっとも昨今の日本、肉食系女子が出現したのか復活したのか 拒否の形を取りたい?日本的心性とまでは言えないのかもしれません。 たまたまそんな女性だったのかも? そうそう。 まち針だけじゃない。 本腰を入れる、独りよがり も 本来はそっち系の言葉で、特に女性に口に出されると、ちょっとなあ。 無知なのか無邪気なのか、ったく。 Julio Iglesias フリオ・イグレシアス O Me Quieres O Me Dejas わたしを愛すのか わたしを捨てるのか 脱線ばかりですみません。 江戸狂言に話を戻して、願掛けの弁慶は 女断ちしていましたが、こんな気持ちいいことをしないなんて あいつら、なんて馬鹿なんだと、互いに性癖知ったる女房と 妙に息を合わせちゃってさ、あっけらかんとしたもの。 嬉し恥ずかし?の肌感覚が伝わってくる微妙な淫靡(いんび)さです。 なあかかあ と、つい相槌を求めちゃうところが滑稽(こっけい)で。 親は行くなと言うのに、娘は どうしても盆踊りに行くと言ってきかない。 と、父親は娘をクルッと後ろ向きにし お尻を3回ほど撫で回して、 「ハイ。 行ったも同じ」 歌垣、盆踊り、地域によっては雑魚寝。 日本社会は需要と供給(男女、どちらが需要かは 状況次第でしょう。 楢山節考の寡婦は、若い衆に劣らず かなり切迫した需要だと思うんだけど)を上手に 按配する柔構造になっているんですね。 性処理の安全弁となるシステムを包み込んでいたのが 日本社会のかつての伝統ですから、西洋型恋愛とは 根本が違うわけです。 恋愛という同じ言葉ですが、日本では気を緩めると レンアイになってしまう素地がある。 「狭き門」ほか、欧米の恋愛小説を読むことが 日本人には難しい一面があるわけです。 男が女に同志的連帯を持ちかける わけです。 もちろん狙いはsex。 女が拒めば「それくらいの 連帯ができなくて、何が革命だ!」と、微温的・プチブル的 優柔不断さを攻撃し、なんとなく納得させる、かなり有効なツール。 ルネサンスのひとつの命題であった「人間性の研究」といった 意識的な第三者の目なんて、そんな面倒な作業はありません。 だから自己分裂もしにくいわけで、結果、可愛げもなく 厚かましさが目立ってしまいます。 こんな不誠実な口説きを平気でできる男って いつもスポットライトを浴びたがるタイプではないでしょうか? だから社会人にナっても頑張って、それなりの地位に なったりしてね。 まぁ左翼でも一方の党派では「歌って踊ってハイ革命」なんて 女性に受け入れやすいソフト路線もありました。 いずれにせよ、ラジカルに凝視する目線は他者にばかりで 心でも身体でも、自分を厳しく見つめる自己観察はなかったようです。 この学生たちに、性に於ける知的承認なんて発想はまず 有り得ないでしょう。 自然(じねん)のものとして 性を深く思い至らないまま扱ったために、容易に性的乱交の宗教と 堕した真言立川流という教派があったことはご承知の通りの事実です。 学生たちに、そんなところはなかったでしょうか? Arturo Benedetti Michelangeli アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ Chopin ショパン Ballade No. 1 バラード 第1番 経典を読むだけでは大きな間違いになるから、これだけはただ 貸すわけにはいかないと理趣経を特別扱いとした空海は全く正しいのです。 学僧としては超優秀な最澄で、せっかく弟子とまで空海にへりくだったのに と反撥したでしょうが、宗教家としてはやはり空海に徹底を見ます。 真言立川流は平安末期の天変地異含む社会的混乱を背景に、醍醐寺三宝院の仁寛が 創設したとされます。 精進潔斎の厳しい修行を経て即身成仏するという真言密教に対し 男女の交合によっても可能としました。 僧・文観によって立川流に導かれた後醍醐天皇は その秘儀の実践として乱交を繰り広げたと言われ、これが無礼講の始まりとも。 その一面をしか捉えておらず、輝かしくも 容易に受け入れやすい属性にばかりに目をくらまされ、それがすべてと思ってしまうと、 この罠にはまることになる。 当然ながら、邪教として弾圧が継続され、 江戸時代に途絶したと言われますが、一部ローカルでは容易に復活していたようです。 髑髏本尊 を信仰の中心に据え、もっともらしくも入念につくりあげられた髑髏本尊は 言葉をしゃべり、すべての願いをかなえることができる、とされちゃった。 いかにも期待を裏切らない?仕掛けでしょ? こういうのにダマされるのは、自分がダメだからですよ。 とんち話で有名な一休さんこと一休宗純はどうだったか。 あの時代に珍しく本格的な修行を自らに課したわけですが。 「淫乱天然愛少年」 おれの天然は淫乱であって、少年を愛す やら 「美人雲雨愛河深」 美人との性愛の河は深い と、かなり徹底したようです。 が、自分と、自分の想う人と、そして恋愛と、三位一体のようなヨーロッパ方の恋愛 となると、そもそも発想が違う気がします。 性愛を自然(じねん)のものとして、それ自体には疑問を持たない、いかにも 民族的な傾向、限界なのでしょう。 恋愛が独自の権利を持って、時に自分をすら 害したりするといった在り方は、やはり、一休さんにはなかったように思います。 上杉謙信なんか「生涯不犯(ふぼん)」なんて誓いを立てたけど、これって 正妻以外の女性とは交わらない、と受け取るのが普通なのだそうです。 な~んだ。 それほどキビシくないじゃん、と拍子抜け。 常勝将軍となるまでの 神通力のひきかえとするには、日本、交換条件が生ぬるいんじゃないでしょうか? 謙信は真っ正直に女性を遠ざけていたから、確かに神がかって強かったけど。 Rachmaninoff Symphony no. 2 3rd Movement ユージン・オーマンディ Eugene Ormandy が手勢のフィラデルフィア響を 指揮した演奏が、何も考えず、繭の中にいるかのようにふんわり 眠らせてくれるので好きなのですが・・・。 子守唄みたいだから 憔悴しきったアリサが聴けたら、少しは気持ちが和らぐ時間も あっただろうに。 あ、女性の方! 現代で気をつけなければいけないのは 夏祭り、花火大会、海水浴 だそうです。 開放感で気がゆるんだり、男性への優しさから空気を読みすぎて ヘンな物、飲まされたらダメです。 恋愛以前の問題です。 恋愛を望みすぎると、悲惨なこともあるということ。 殿方に気に入っていただこうと上の口を開くと 下の口もどうしても開いてしまうものですわ といった言説は、ブラントームの艶婦伝の一節だったか。 かかわってはいけない男には、徹底的な無視がいいのです。 ご用心、ご用心。 Tania Libertad タニア・リベルタ PELEAS けんか 個人的には、大学生のとき 職場の兄貴分に気に入られ 「家に遊びに来い! 嫁を貸してやる」 なんて言われてブッ飛びました。 「頭がいいだよ。 英検2級だ」と 嬉しそうに女房自慢が続きました。 性のモラルとしては情けないところもありますが、 まさに古代の歌垣そのままの大らかさではないかしらん? それが伝統的な、あるいは代表的な 日本社会の性への向き合い方だったと みることができるかもしれません。 だからこそ、そこに日本のセクハラの根深さを見ることも可能でしょう。 もちろん、日本的なレンアイの風景は古来、自然に存在していますし その大らかな、素直な性が悪いわけではないのです。 古文の教科書にも載っている弟橘比売(おとたちばなひめ)が詠った さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも など、こういう想いなんかストレートで 舎人も日本的心情のベストだなぁとは思います。 なにも「狭き門」ほかで描かれた西洋型恋愛がベストだとは思わないもの。 マルタ・アルへリッチ Martha Argerich が Schumann シューマンの 「子供の情景」から「見知らぬ国」を弾いています。 Von Fremden Landern und Menschen 奈良時代、聖武天皇の皇后、光明子は、夫にこんな歌を贈ります。 吾背子(わごせこ)と 二人見ませば 幾許(いくばく)か この降る雪の うれしからまし 心が深いからこんな優しい想いがあふれるんですね、きっと。 僧の玄昉(げんぼう)と、あらぬ噂? は立っても 苦心の造営の東大寺大仏殿須弥壇 しゅみだん、大仏さまが座っている まさにその高くなっている場所)の地下から見つかった右あご下の臼歯が 聖武天皇のものではないかと言われているけど、それはまさに 光明皇后の指示だろうし、つまり、真情において 誰とともにあったかは明らかだと思うのだけれど。 対して夫君の聖武天皇にはこんな歌があります。 男は大らかに、余裕をもって人に接したいものです。 ちゃんと美しいのです。 ただ西洋型の恋愛とは 本質的に違っているだけで。 焼き餅は遠火で焼けよ 焼く人の 胸も焦がさず味わいもよし。 落語ですね。 で、そのまま耳学問であり、世間知となっています。 決して恋愛そのものを見つめ、追究していくのでなく 恋愛の人間関係の在り方だけを問う。 これが日本的解決なんでしょう。 焼き餅も嬉しいもので、おかげで香気ある色模様になるんだろうな、ってね。 かんざしも逆手に持てば恐ろしい もご同様。 表裏一体だからこそ、かんざしも可愛らしく、美しい。 Mari Trini マリ・トリニ Cuando la lluvia cae 雨が降るとき 「恋多き女」なんて言い方があります。 「恋多き男」という言い方は、ちょっとしっくり来ません。 つまり恋は日本の男女には平等ではないということです。 男の価値は少なくとも、色恋沙汰にはなさそうです。 西欧型の恋愛が日本社会にまだ成熟していないひとつの証拠でしょう。 でもレンアイ依存が体質なのか、そんな恋ばかり繰り返して いったい、どうなりたいのでしょう? あとさき、考えなし? Marlene Dietrich ドイツの名女優 マレーメ・ディートリッヒ Ne Me Quitte Pas ドイツ語で歌っているけれど、原曲のフランス語がタイトル。 行かないで 芭蕉と弟子の凡兆がこんな連句を交わしました。 さまざまに品かはりたる恋をして 浮世の果は皆小町なり (猿蓑集 巻之五) 上の句が凡兆、受けたのが芭蕉です。 流れ流され漂泊の、その最果ての成れの果て 卒塔婆(そとば)小町とはなお、哀れとも言いがたく。 とどのつまり。 奥州は極楽寺門前に、されこうべをさらす小町。 花のようなる小町への終(つい)の手向けは そのされこうべから頭を出すススキの穂です。 色情無残。 花の色はうつろって 彼女の恋とはなんだったのか? (勝手に、わたしの人生をあれこれと。。。 と、小町は怒ってる?) 聖書の言葉。 箴言 31章30節、読み方は「しんげん」) 「あでやかさは偽りであり、美しさはつかのまである」 そして続きます。 意味を知りたい方は、ご検索ください。 日本人の恋愛における精神構造が 「狭き門」と比較して いかに離れているかをみてきました。 言い換えれば、日本的読みに無意識のうちに 陥りかねない危険性を測るための回り道でした。 不安遺伝子を持つ人の割合が高く 世界で一番、不安に陥る民族といった 日本人ならではの特性がいろいろあることでしょう。 ジッドが描いた、あるいは作者の意図以上の本来の世界を 日本人にありがちな解読で都合よく解釈し、間違った「狭き門」像を みてしまわないように気をつけて読み進めないと。 最上部の横のバーにある 狭き門 ジッド 5止 の文字をクリックしてください。

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