僕はここにいる。 僕がここにいる理由|斜陰|note

僕はここにいる 山崎まさよし 歌詞情報

僕はここにいる

概要 [ ] ギャグ作品を得意とするが(本人曰く「ギャグは渇望しないと生まれないため」)ギャグを一切封じ、アニメで軽く扱われすぎている戦争をきちんと描いてみたいと思い、アフリカの内戦によって生み出された少年兵士を参考に、別世界の闘いが日常になっている状況に飛び込む作品。 世界観 [ ] 世界観に関する設定や解説などを大幅に簡略化しており、遠い未来の地球のどこかであるという、漠然とした舞台設定(物語の冒頭で「こんなにももろく~百億年の年月だから~」というセリフがあるものの、定かではない)である。 荒廃し切った大地、異常発達した動植物、軍事などの一部目的に特化したハイテクノロジーなど、物語の各所で垣間見える要素が、現代とは異なる環境たる所以である。 クリエーター [ ] 暴力描写の数々は、それまでの作品とは全く異なる作風である。 また彼の作品の多くがそうであるように本作にもが参加していて、狂王ハムドを演じたの予告編の脚本を書いている。 、、など、の有名クリエイターが多数参加している。 特に、平松、大塚とはこの作品を境に大地と仕事をともにする機会が顕著に増えた。 また、、、、、といった、大地監督と交流を持つアニメーター達も本編の作画作業にたびたび参加している。 本名は「松谷 修造」。 を習っている正義感の強い元気な性格の中学生の少年。 元は現代の日本で暮らしていたのだが、ララ・ルゥと出会ったのをきっかけに彼女とアベリア一派の捕り物に巻き込まれてヘリウッドに連れてこられる。 キャラクターのモデルは『』の。 ララ・ルゥ 声: 本作のヒロイン。 外見は幼い少女だが、人間では無い何らかの伝説的な存在で、本人曰く「シスより何万倍も生きている」「親は元からいない」とのこと。 ペンダントを用いて自らの命を削って水を生み出すことが出来るためヘリウッドに狙われていた。 普段は寡黙に徹している。 夕陽を見るのが好き。 かつては人間の為に水を出したことがあったが、初めは感謝しながら次第に出すのが当たり前になって横暴な態度を取り、挙句の果てに争いすら始める人間に辟易するようになった。 人違いと判明した後も解放されずに兵士を産むための慰安婦にされしてしまった。 後に兵士一名を殺害して脱走し砂漠を放浪して、ザリ・バースの住人に救助される。 自らの悲境の契機となったララ・ルゥを憎悪し、結果的に無力な気休めを言ったシュウにも非難を浴びせる。 最初は金髪のロングだったが、脱走した時には自らナイフで髪を切りショートヘアになっている。 ナブカ 声: ヘリウッドの少年兵の一人。 幼い頃にヘリウッドの少年兵狩りにあって故郷の村から引き離されており、それ以来、ハムド王の命令に忠実に従うことこそが、自分達に残された唯一の道と自分に言い聞かせて生きており、不本意ながらも非道な軍事作戦に参加し続けている。 己の正義感に従って行動するシュウとは、幾度も対立を起こすも、一人の人間としては共感を感じてもいる。 ブゥ 声: ヘリウッドの少年兵の一人。 ナブカを慕っているが、シュウにも理解があり、彼の逃亡に手を貸す。 タブール 声: ヘリウッドの少年兵の一人。 ナブカとは同郷で、同じ悲劇を味わいながらも、武力と権力で欲望のままに生きるハムドの生き方にあこがれており、未だ過去の苦しみを引きずっているナブカの姿勢に苛立ちを深めている。 実は故郷の村が完全に抹殺されていることを知っており、穏やかな過去の生き方を完全に捨てて権力の階段を上ることばかり考えている。 ハムド 声: ヘリウッドの狂王。 己が権勢を取り戻すためとあらば如何なる犠牲をも厭わず、敵国の民は勿論自国の兵士すらも目的のためには容赦無く殺戮する。 自身への暗殺計画を実行した刺客達がザリ・バース居住者と判明した後は同地の殲滅を企図する。 極度の興奮状態に達してに陥ったり場面がしばしば見受けられる。 敵はおろか、自分にとって役立たない者や無関係な人々さえ全てを存在に値しないゴミ同然のシロモノとしか思っておらず、わが身の安泰と日々の欲望を遂げることしか考えていない。 精神的小児病患者とも言うべき異常者。 ただ、生まれと教育の結果か、ハイテク軍隊の運用理論や戦略に精通しているため、軍人としては標準以上の能力を持っている模様。 アベリア 声: ハムド王の側近で軍のトップ。 主君一途の忠臣。 ハムドに対して忠実だが、主君がしばしば見せるエキセントリックな言動に不安と戸惑いも見せる。 カザム 声: ヘリウッドの兵士。 サラが相手をさせられた兵士の一人だが、ほかの兵士と違い彼女を恋い慕っている様子があり、ヘリウッドでのひたすらな破壊と殺戮の日々に鬱屈を感じ始めてもいる。 ザリ・バースに潜入した際にはサラにザリ・バース襲撃の計画を知らせて一緒に逃げようと呼びかけたことがある。 エランバ 声: ザリ・バースの住人で反ヘリウッドの過激派のリーダー格。 ヘリウッドに両親を焼き殺され、体の弱かった妹もさらわれた挙句に足手まとい扱いされて捨てられ死に追いやられた為に人一倍ヘリウッドを憎み、目的のためなら手段を選ばないばかりか、非協力的な人間にさえ憎しみを向けるようになっている。 スーン 声: ザリ・バースに住む女の子。 母がヘリウッドにさらわれたのをきっかけに父は過激派の暗殺者として任務に向かったまま消息不明となり、シスに預けられた。 ララ・ルゥを「ラーラ」と呼び慕っている。 シス 声: ザリ・バースで子供たちの面倒を見ている肝っ玉母さん。 頑なな対決姿勢で無用な敵意を買うことで村を危険に晒したくないとの思惑から、過激な反ヘリウッド主義に走る住民達を説得し続けているが、これによってエランバの憎悪を受けてしまう。 スタッフ [ ]• 企画 -• プロデュース - 隈部昌一、森尻和明• 監督 -• 助監督 - 、則座誠• シリーズ構成・脚本 -• キャラクターデザイン - 大泉あつし• コンセプトデザイン - 山﨑健志• 総作画監督 - 西野理恵• 美術監修 -• 美術監督 - 野村正信、益城貴昌(第2話、第3話、第5話-第13話)、京田邦晴(第4話)• 美術設定 - 佐藤正浩• 色彩設計 - 秋山久美• 撮影監督 - 斉藤秋男• 編集 - 松村正宏、芝関美和子(第2話-第13話)• 音響監督 -• 音楽 -• 効果 -• 録音 - 名倉靖• 音響制作担当 - 白崎恵理• 音楽プロデューサー -• 音響制作 - アクアトーン、• 録音スタジオ - アバコクリエイティブスタジオ• サウンドトラック -• 制作プロデューサー - 福良啓、松嵜義之• 特別協力 -• 製作 - AIC・ 主題歌 [ ] オープニングテーマ「今、そこにいる僕」 作曲・編曲 - エンディングテーマ「子守歌... 「今、そこにいる僕 サントラ」(1999年) DVD [ ]• 「今、そこにいる僕 Vol. 1」(1999年)• 「今、そこにいる僕 Vol. 2」(2000年)• 「今、そこにいる僕 Vol. 3」(2000年)• 「今、そこにいる僕 Vol. 4」(2000年)• 「今、そこにいる僕 Vol. 5」(2000年)• 「今、そこにいる僕 TV-BOX」() 脚注 [ ]• 外部リンク [ ]• - (2013年8月31日アーカイブ分) 木曜19:00枠 前番組 番組名 次番組• (1995年)• (1996年 - 1998年)• (1998年)• シリーズ(1998年、2014年)• (1998年 - 現在)• シリーズ(1999年、2004年)• (1999年 - 2000年)• (2000年)• 美少女生活(2001年 - 2002年)• (2001年)• (2002年、第5話まで)• (2004年 - 2005年)• シリーズ(2005年 - 2006年、2008年、2010年)• (2006年)• (2009年)• (2009年 - 2011年)• (2010年、第4話)• (2012年)• シリーズ(2012年、2015年)• シリーズ(2013年、2015年)• (2016年)• シリーズ(2016年 - 2018年)• (2019年、第1話)• (2019年) OVA.

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「ここにいるよ。」僕とTwitter|ジョイマン高木の【キャリアの斜陽】第3回

僕はここにいる

1909年、山口県徳山町に生まれる。 台北工業学校卒。 台北工業学校在学中に詩や短文を書き始め、友人と同人誌を作る。 戦前台湾で総督府に勤めながら「コドモノクニ」「綴方倶楽部」などに 投稿。 児童誌「コドモノクニ」に投稿した詩が北原白秋選で特選になり、童 謡を創りはじめる。 北原白秋に詩、童謡を学ぶ。 戦後帰国して、婦人画報社 に入社、子どもの雑誌「チャイルドブック」の編集に携わる。 この頃より幼 児雑誌、ラジオなどで童謡を発表するようになる。 「一年生になったら」「ぞうさん」「ふしぎなポケット」「やぎさんゆ うびん」などの童謡の傑作がある。 野間児童文芸賞、芸術選奨文部大臣賞、 路傍の石文学賞特別賞、日本児童文学者協会賞、巌谷小波文芸賞、国際アン デルセン賞、朝日賞など受賞。 ペンネームについて、あるところで次のように語っている。 「本名は石田道雄ですが、若いときにペンネームのつもりでつけたんです ね。 つけた途端にいやになりまして……(笑い)。 ところが恩師の北原白秋 先生が「いい名前じゃないか」とおっしゃったので、それじゃ、このままで いいだろうと、それからずっと使っているわけです。 「まど」というのは、 家でも何でも、外に通じる窓がなかったらどうにもなりませんね。 窓を通じ て外の景色を見たりします。 そんな感じでつけたんです。 教材分析 第一連の詩内容は、この詩全体の意味内容の大要を表現しているよう に思われます。 第一連には「ぼくがここにいるとき、ほかのどんなものも、 ぼくにかさなって、ここにいることはできない」と書いてあります。 地球上のこの地点(位置)にぼくが立っているとします。 ぼくが立って いるこの地点(位置)に、他人が同時に立つことはできません。 ぼくの肩の 上に他人が両足をのせて二重に立つことはサーカスなど特別な場合にはでき ますが、それとて、ぼくが両足を接地して立っている大地の、その同一地点 (位置)に同時の二人が両足を接地して立つことはできません。 つまり、ぼくは、というか、すべての人々は、一人一人が個人として尊 重され、尊厳を与えられている、かけがえのない存在であるということで す。 一人一人が社会的にその存在が認められ、個人として尊重され基本的人 権が保障されているということです。 この詩はそういうことを主張している 詩だと思います。 アイデンテティティの尊厳を主張している詩だと言えま しょう。 第一連では、「ぼく」のアイデンティティについて書いています。 第二 連では、身体が大きいものの代表としてゾウのアイデンティティについて書 いています。 第三連では、身体の小さいものの代表としてマメのアイデン ティティについて書いています。 第四連では、この地球上のどんなものにも すべてアイデンティティが保障されているのだと書いています。 第五連 では、「いるということ」つまり「存在するということ」は何にもましてす ばらしいことである、個々人の(いや、人間と限らず、動物や植物すべて) のアイデンティティは保障されるべきである、侵害されたり、抹殺されたり してはいけない、世界人類みんなで守り育てていかなければからない、と書 いています。 第二連の「そのゾウだけ」のあとにどんな言葉がはいるかを子ども達に 考えさせてみましょう。 解答は一つとは限りません。 例えばこんな文を入れ ることもできましょう。 「そのゾウだけしか いることはできない。 ゾウに かさなって ほかのものが ここに いることは できない」など。 第三連の三行目「しか」は、なぜ二行目の後「マメだけしか」と書いて ないのでしょうか。 三行目のあたま「しか ここに いることは できな い」と書いてあるのでしょうか。 「マメが(ここに)いるならば、その一粒のマメだけしかその地点に接 地して位置することはできない、マメはいくら小さくても、その場所は、そ のマメだけが位置できる、そのマメだけが独占し占有する場所なのであると 強調しているのです。 たった一粒のマメであるが、その一粒のマメだけの独 占場所だと主張しているのです。 そのことを特立して強調したいがために 「しか」を目立たせて第三行のあたまに記述しているのだと考えます。 そういう指定席という特別の存在の場所である。 第四連には、語順変形があります。 意味内容から考えると「どんなもの が どんなところに いるときにも」(四行目、五行目)とはじめにあっ て、つづいて「ああ このちきゅうの うえでは こんなに だいじに ま もられているのだ」(一行目、二行目、三行目)という順番になるのが通常 でしょう。 語順変形をさせることで、自然の摂理としてのアイデンティティ の場所は確保されているのだ、ということを強調している表現だ考えられま す。 物理的位置でのアイデンティティは確保されているが、人間社会という 魑魅魍魎の世界でのアイデンティティはどうでしょうか。 人間社会でのアイデンティティは侵害され抹殺されている側面が多くあ ります。 そうしたことが毎日の新聞紙上に満ちあふれています。 この詩は、 人類の英知と知恵を出し合って各人のアイデンティティを守り育てていかね ばならない、と訴えています。 この詩の裏ではこういうことを主張している のだと考えます。 憲法第13条 すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する 国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の 上で、最大の尊重を必要とする。 民法第709条 (不法行為による損害賠償) 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した 者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。 毎日の新聞を読んでいて気づくこと 戦争による大量殺戮、大量の核兵器の製造、テロ、内戦内乱、難民移 動、国外脱出、卑近な日常生活の例では、子どもの親殺し、親の子殺し、子 捨て、虐待、陰湿ないじめ、子どもの自殺、格差社会と基本的人権の侵害な ど数えあげたらきりがありません。 音声表現のしかた この詩の意味内容を、こうで、こうで、こうなんだと、論理的に理屈っ ぽく誰かに伝える言いぶりにして音声表現してみましょう。 急がず、ゆっく りと、一つ一つの音をていねいに発音しましょう。 詩内容を誰かに伝えてる つもりで、かんでふくめるように、相手に丁寧に分かりやすく伝えてるよう に、詩内容が、分かる分かると相手が容易に理解してもらえるように、そん な気遣いをしながら音声表現していきましょう。 「ならば」とか「しか」とか「だけ」とか「こそ」とか「のだ」とか 「にも」とか「として」とか、これらの言葉は強調して、目立たせて、ふん ばるようなつもりで、高い声で強めて音声表現するとよいでしょう。 次のような音声表現をしてみるのも一つの方法です。 太字は、かんでふ くめて、粒立てて、押さえて、目立たせて、高めの声で強調して音声表現す るしるしです。 一人一人の存在証明を強調している詩です。 自分の居場所 で輝いて生きる喜びの大切さを主張している詩です。 まず、一人ひとりのかけがえのない価値、アイデンテティティを確立す ることが大切です。 そして、一人ひとりがお互いにアイデンテティティの違 いを認め、その違いを尊重しあうこと。 そのためには相手を知り、自分をき ちんと相手に伝えていくことが重要となってきます。 まさに、ひよこたちが 努力していることがここにあり、と言えましょう。 ひよこ まど・みちお ひよこたちが なく めいめい じぶんのなまえを いって じぶんが ここに いることを おかあさんが わすれないように ピヨピヨピヨ ピヨはここよ キヨキヨキヨ キヨはここよ ミヨミヨミヨ ミヨはここよ チヨチヨチヨ チヨはここよ みんな なく みんな なく おかあさんの むこうの もっととおくへも きこえるように せかうじゅうに きこえるように せかうじゅうを みていらっしゃる かみさまに きこえるように なお、この詩は、拙著『表現よみ指導のアイデア集』(民衆社。 2800 円)の付録CDに、わたしの学級児童の、この詩の読み声録音や、わたしが 児童に読み声指導をしている授業風景の録音が収録されています。 参考資料(2) 斉藤孝『子どもに伝えたい〈三つの力〉』(日本放送出版協会刊)を読 んでいたら次のようなアイデンテティティに関する文章がありました。 斉藤 孝(明治大学教授)さんは、アイデンテティティという概念が教育の基礎概 念として位置づけられるべきだということを主張しています。 「アイデンテ ティティが教育の基礎概念として位置づけられるべき」という考えは、とっ ても重要なことだと思います。 ーーーーーーー引用開始ーーーーーーーーー エリクソンによれば、アイデンティティの基本用件は二つある。 一つ は、自己の内的な一貫性の感覚であり、もう一つは、自分と他者がある本質 的な部分を共有しているという感覚である。 どんなに時間がたっても自分は やはり自分であるという、自己の存在の一貫性を感じることができれば、自 分の存在をかなりの程度実感できる。 もし10年前の自分、あるいは一年前 の自分と現在の自分とのあいだに内的な一貫性を感じることができないとす れば、アイデンティティは相当混乱する。 人間は、細胞が絶えず入れ替わる ように少しずつ変化している。 しかし、個々の細胞が日々入れ替わっている にもかかわらず、自分の身体が一貫性を保っているように、さまざまな状況 の中で変化しながらも、人間は基本的には内的一貫性を保っている。 こうし た内的一貫性が、教育では大筋として目標とされてよいあり方である。 もち ろん、ラディカルに自分のアイデンテティティを壊しつづけることによって 生きるという生き方を否定するつもりはないが、こうしたいわば芸術的な生 き方をノーマルな主流と位置づけるのは適当でない。 アイデンティティは、心理的側面を持つと同時に社会的側面をも同時に 持つ。 社会(他者)との関係においては自分の本質的な部分を共有している という感覚が、アイデンティティにとっては重要である。 外部との関係を 絶った精神的なひきこもり状態によっては、アイデンティティは形成されに くい。 「自分は自分だ」という同語反復的な内部循環的プロセスだけでは、 アイデンテティティは成熟していかない。 『子どもに伝えたい〈三つの力〉』(日本放送出版協会刊)137ぺより ーーーーーー引用終了ーーーーーーーーー.

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僕はここにいる(山崎まさよし) / コード譜 / ギター

僕はここにいる

どうも、斜陰です。 年も明けてしばらく経ちましたが、皆様はいかがお過ごしでしょうか?最近の僕はといえば、学生としての職務に忙しくしております。 つまりは、来月のテストやらレポートやらに奔走している毎日です。 まぁそんな中で、今回は何について書いていくかといいますと、僕が劇団幻像団に入ろうと思った理由について書いていこうと思います。 一応知らない人のために書いておきますと、劇団幻像団というのは福井県福井市を中心に活動しております、アマチュア劇団です。 時代劇から現代劇まで幅広く、そして劇団員の年齢層も幅広く、いろいろとやっております。 もし、もっと詳しく知りたいという方がいましたら、是非、下記リンクよりホームページの方へどうぞ。 はい、というわけで本題の方に移ろうと思うのですが、そもそもいつ入ったのかというのを振り返ってみると、2019年の9月です。 つまり、入団してからもうすでに半年弱も経っているということです。 時が経つのは早いなぁなんて、新年早々感慨にふけるわけなんですが… 半年が経っても、僕はこれまで劇団幻像団に入団した明確なきっかけを幻像団の皆さん含めあまり話してきませんでした。 普通だったら、入団の際にその理由を皆さんに話すのが筋かとは思いますが、なんていうかまだその時は話す勇気がなかったというか、まだ心の準備ができていなかったというか、なんというか。 もちろん、入団の際に軽くその理由やきっかけについてはお話したのですが、入団の本当の理由というか、真の意図についてはまだお話できていません。 なので、周りからはなぜ劇団幻像団に入ろうと思ったのか、そもそもなぜ演劇を始めようと思ったのか、よく聞かれます。 というのも、僕は中学生から高校生までずっとサッカーをしてきた人間だからです。 なので、余計に不思議がられているみたいで。 まぁ確かに普通に考えればそうですよね、これまでずっとサッカーをやってきた人間がいきなり演劇を始めるなんて、それはそれはおかしなことです。 そして今回は、そのおかしなことの理由について書いていこうと思うわけです。 それではこれから僕が劇団幻像団に入ろうと思った理由について書いていこうと思うわけなんですが、その理由は主に2つあります。 まず1つ目は…と言いたいところではあるんですが、それはまだお楽しみにということでこれから書く話の流れの中で紹介したいと思います。 それではどうぞ。 まずはですね、僕の趣味の話から始まります。 まぁ長々と書くのもあれなので、すごく簡潔に言うと、僕は根っからのオタクです。 小学6年生のころからアニメオタクをやっています。 ついでに声優オタクでもあります。 まぁだから何?って話だとは思うんですが。 それが割と重要な話でして、僕は去年(2019年)の7月に推しの声優さんのライブに行ってきました。 声優さんのライブって何するの?って疑問に思った人のために一応説明しておくと、最近の声優さんは役を演じるだけでなく、歌も歌います、ダンスも踊ります。 その他にもいろいろします。 まぁそれはそれとして、僕の推しの声優さんは自分で作詞して作曲して、そしてそれを自分で歌います。 まるで、シンガーソングライターか?って思うほどなんですが、本業は声優です。 (ちなみにその声優さんはアーティストとして最近ソロメジャーデビューが決まりました。 ) いや別に、推しの声優さんについて語りたいわけじゃなくて、僕はその声優さんのライブが半端なかったって話をしたいわけです。 じゃあ何が半端なかったかって話なんですが、もう全部です。 全部がやばかったです。 はい、全部です。 いや、それじゃわからないよって話ですよね。 はい、そうですよね。 はい、落ち着いてゆっくり書きます。 僕はこれまでいわゆるアーティストと呼ばれる人のライブとは縁がなく、今回お話しするライブが僕にとっては人生初ライブでした。 なので、そのライブに行く前日から一緒に行く友達と2人でそわそわしながら(その友達にとっても人生初ライブだったみたいで)、本番が始まるまでどういう心持ちで迎えればいいのかもわからず、人生初ライブに対する緊張とやっと推しの声優さんに会えるという高揚感でいっぱいで、ライブが始まるまでずっとふわふわした気分でした。 そして、ライブが始まった瞬間、息が詰まって胸が苦しくなって、鳥肌が立って、彼女がステージに出てきた瞬間、それまでの緊張が解けたかのように、目から涙が溢れてきて、すぐ目の前に推しの声優さんがいて、いつも画面越しに写真越しで見ていた彼女がそこにはいて、感動っていうか、うれしいっていうか、なんて言葉で表したらいいかわからないけど、とにかく胸が熱くなったのを今でも鮮明に覚えています。 ライブでは、しっとりとした曲とか盛り上がるアップテンポな曲とかいろいろあって、途中ギターとかトランペットとかハーモニカとかも演奏したり。 彼女のかわいい部分も、かっこいい部分も、真剣な姿も、ノリノリな姿も、彼女の笑顔も、恥ずかしがっている顔も、ちょっと背伸びしようとする姿も。 彼女の歌う姿からは心の叫びというか、魂の叫び、いやなんか違うな。 そう、19歳の等身大の女の子がそこにはいた。 そして、そんな彼女の言葉が、歌声が、僕の心に直接語り掛けてきて、 どんなに無理だって周りに言われても、どんなに苦しいことがあっても、まだ諦めるのは早いよ、まだまだこれからだよって。 君の夢を叶えるためには苦しいこともたくさんあるかもしれない。 でも、誰もが自分の夢を叶えるためにたくさん苦労して頑張って頑張ってその目標や夢に向かっていく。 だから、君も私と一緒に頑張ろうよ、私も私の目標に向かって頑張るからって。 彼女は僕の中に眠っていたものを呼び覚ましてくれました。 諦めかけていた僕の夢を思い出させてくれました。 新たな一歩を踏み出すための勇気をくれました。 そして、そんな彼女を見て僕はこう思ったんです。 僕も彼女みたいに誰かのきっかけになりたい。 僕が彼女の歌を聞いて自分の夢を思い出したように、僕も僕の表現する何かで誰かのきっかけになりたい。 それぞれ目標は違えど、誰かが頑張るきっかけになりたいと僕は思ったんです。 じゃあ、そのために僕はどんな表現ができるだろう?って考えたときに出てきたのが演劇だったんです。 僕は別に歌が上手いわけでもないし、絵が描けるわけでもない。 じゃあ僕には何ができるんだろうか、何がしたいんだろうかって自分の過去を振り返ったとき、僕は小さい頃のある一つの夢を思い出しました(ちなみにこれは彼女の歌によって思い出したものとは異なります)。 それは、ミュージカル俳優になりたいという夢です。 いや、歌が得意じゃない癖に何言ってんだって話なんですが、まぁとにかく聞いてください。 僕の母は昔から演劇とりわけミュージカルが好きで、小さい頃から何度か連れて行ってもらっていました。 そして、初めて見たミュージカルが劇団四季の「人間になりたがった猫」という作品でした。 当時僕は小学3年生でインドア派だったので、いやいやながら付いて行ったような記憶があります。 でも、その作品を見た後に出てきた言葉はその態度とは正反対のものでした。 そして、小学4年生になったとき、僕の母のすすめで自治体が主催する舞台のオーディションを受けました。 確かオーディションは実際の台詞を何人かで読んでみてって形のものだったのですが、まぁなかなかに緊張して、声も震えて、自分でもこれは無理かなぁって思ってたんですが、何とか主人公たちの幼少期の役をいただきまして、それからというもの人生初めての経験をたくさんしたような記憶があります。 まぁ当時の僕はまだまだ幼かったですから、その舞台に出させていただいたことで僕のミュージカル俳優になりたいという夢には満足してしまったのです。 そして、それ以降は何度かミュージカルに連れて行ってもらうくらいで、自分が何かを演じたいと思うことはあまりありませんでした。 (そういえば、高校生の頃に演劇部に入ってみようかなという考えが一瞬、頭をよぎった気がします。 結局は中学生のころから続けていたサッカー部に入るわけなんですが。 ) はい、というわけで話を戻すんですが、こうして僕は誰かのきっかけになるために「演劇」という表現を選んだわけです。 そしてそこからはもう電光石火のごとく、事は進んでいきました。 今自分が住んでいる福井市で、活動している劇団はないかとググったところ、一番最初にでてきたのが劇団幻像団さんだったのです。 もちろん、他の劇団についても調べてみました。 ただ変な話、ネットでの活動(ブログとかTwitterとか)も充実しているところはリアルも充実しているという考えが頭にありまして(まぁこれは僕の偏見でしかないとは思うんですが)、いろいろ調べた中でネットでの活動が一番盛んだったというか、一番透明性があったというか。 とにかく、この劇団(劇団幻像団)の見学に行ってみたいと思ったのです。 そして僕が初めて見学をしたのは、8月の中旬ぐらいだったと思うのですが、その時劇団幻像団さんでは9月の本公演「人魚狂詩曲」に向けての稽古が行われていました。 まぁその稽古を僕はずっとじっと静かに見つめていたわけなんですが、何度か稽古に通っていると「人魚狂詩曲」の台本をいただきました。 そして、その台本を全部読んだとき僕はこんなことを感じたのです。 もしかしてこの劇団なら、僕が表現したいと思っていることが実現できるかもしれない。 ってね。 うん、なんていうかね、そう感じたんです。 まぁもっと言うと、その台本の伝えようとするものが、僕の見ている方向と同じような気がしたんです。 まぁそんなのは自意識過剰というか、きまぐれなのかもしれないですが、いやそうじゃないと。 そうじゃない。 これはきっと、僕の信じるものと通ずるところがあると。 僕も同じ方向を見ていたい。 そして、その先にあるものを一緒に追い求めていきたい。 それが僕がここにいる理由です。 だから僕はここにいます。

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